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第一章 : 「根拠」の外部へ
− 本当の「自己」とは何か −
| 1.「私」に根拠はあるか |
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| 2.形而上学的思考の限界 |
二種類の形而上学的思考 ※形而上学的思考には、「真に実在するもの」に対する二つの立場がある ・「真に実在するもの」は、「見えないもの」とする立場 ・「見えるもの」は、「真に実在するもの」からの現れであるとする立場 ※「真に実在するもの」は、「見えないもの」 ・「見えないもの」は通常の知覚では見えない →「悟り」や「本質的直感」的飛躍とされる特殊な精神的・身体的状態になることによって「見抜く」 →「苦行」・「禁欲」などの「非日常的」鍛錬、隠棲しての「瞑想」・「観法」などの修行 →鍛錬や、修行の結果獲得される「神秘的直感」の重視 ・日常の事物=「浮世は夢」 →「神秘的直感」から日常の事物を照らし返すと、全ては「浮世は夢」である →夢である浮世に思い煩うのは愚の骨頂である。夢は夢なりの「真実」であるという程度で対すればよい ※「見えるもの」は、「真に実在するもの」からの現れ ・「見えないもの」は、「見えるもの」を「通して」知られる ・我々の知覚・認識能力にも、絶対者と同様の力が本来備わっている →「見えるもの」の「冷静」な観察と認識が大切 →データの集積と「学的・理性的直感」によって「見えないもの」が「見えるもの」の中に「見えてくる ・真理は丸出し →日常世界のあらゆる局面は「見えない」絶対者の現れである 形而上学的思考の限界 ※形而上学的思考には限界がある ・二種類の形而上学的志向は、人間の思考に強力な拘束力を持つ ・特に、「浮世は夢」の立場の形而上学では、過激な現状改革主義になることがある →「見えない」理想に合わせて現状を改変する必要とするため →この形態に留まる限り自分も「絶対者」の範囲内にあることを前提にせざるを得ない →「絶対者」を知覚するということは、「絶対者」の世界の中に自分が含まれていることが前提であるため |
| 3.「第三の道」としての仏教 |
議論を下りる ※形而上学的思考とは全く別の地点から光を当てる ・「有り−無し」の議論のもうひとつの方法は、この議論自体を降りることである →仏教の言う「中道」とは、有無判別についての議論の土俵の外にでる態度のことである ※根拠への「問い」と、とどまる「問い」 ・「自分が自分である」根拠の有無は考えなくても良い →根拠があると言えないからないと言う必要もまたない。どうでも良いものである ・問いがあるという事態 →根拠の有無を考えなくても良いとしても、根拠への問いは残る →私たちが考えなければならないのは、根拠を問うことではなく、問いがあるという事態そのものである ・「自己」はプロセス →根拠は求めても得られない。根拠への問いは問いのままにとどまる →「自己」とは、問いに答えるのではなく、応えながら生成される、そのプロセスである |
第二章 : 煩悩のトライアングル
− 「苦」としての実在 −
| 1.欲望とは |
「首尾一貫した本当の自分」に対する欲望 ※コレクションとブランド志向に見る欲望 ・コレクターの欲望 →コレクションとは、自分の決めたことを首尾一貫させようとする欲望である →コレクションの欲望は物ではなく、集めるというそれ自体の「思い」に向かっている ・ブランド物における「本物」志向 →ブランド物における「本物」とは、物ではなく「本物であるという決定」の手続きである →「本物」志向とは、手続きによって保証された「本物」という決定に対する「思い」である ※「自分であることの首尾一貫性」への欲望=「自分であることの根拠」 ・コレクションやブランド志向に見る「思い」は、現在の自分を「偽者」と見る →自分自身の価値観において完成させようとする「思い」だからである →「思い」における完成がなされていないため、現在の自分は自分でない、嘘の、「偽者」の自分に思える ・「自分であることの根拠」を見出す作業 →「自分であることの根拠」における「根拠」そのものを見出す作業は、必ず行き詰まる →「根拠」がないからである |
| 2.所有とは |
「根拠」への欲望と、その代用としての「所有」 ※「根拠」への欲望と、その代用としての「所有」 ・「自分であることの根拠」は、見出すことはできない ・行き詰まりに対し、物を集め所有することが「根拠」に代用される →所有の本質は、物を「思いどおりに好き勝手に処分できる」ことである →自己決定できることであるため、根拠足りうるものとして認められてしまう ・「所有」は、所詮代用でしかない →「所有」によって、「自分であることの根拠」が満足されることはない →「所有」欲もまた、最初から失われている根拠への欲望に根ざしている |
| 3.煩悩のトライアングル |
「苦しみ」そのものとしての人間の存在 ※「思い」としての欲望 ・常に「思い」は、まず他者によって媒介され、他者から教わらなければならない ※「苦」の生起 ・「苦」は、いたるところの事象・事物への愛着からの渇愛である ・「苦」とは「思いどおりにならない」ことである ・欲望は、際限のないものである ・「苦」の本質は、「自分であることの根拠」への欲望である →「自我」自体が恣意的に決められたものである根底であるため、首尾一貫させようとする →その首尾一貫させようとの「思い」が「欲望」、つまり「煩悩」である 「欲望」と「所有」と「自我」のトライアングル ※欲望とは ・欲望と欲求とは異なる →欲望は、人との接触の中で、他者に媒介され、他者から教えられたものである →欲望は、本能としての欲求とは関係がない ※欲望の本質は、「思いどおりにしたい」である ・「首尾一貫していること」とは、自分自身の価値観の中で「思い通り」にできているということである。 →物の所有とは、物を自己決定できることである ・苦しみの本質は、「思いどおりにならない」である →欲望とは、本能的に「したい」ことではなく、「思いどおりにしたい」という「思い」である ※欲望の核心としての所有 ・欲望と所有と自我(「自分であることの根拠」)のトライアングル →「欲望」の核心は、「所有」である →「所有」の実質的意味が「自己決定」である →「自己決定」が「自分であることの根拠」である →トライアングルの螺旋的連鎖により、「自分であることの根拠」はより堅牢なものとなる ※代理としての「所有」の限界 ・「所有」は、「自我」の代用にはなり得ない →「所有」の欲望は、他人に教わったものである →「所有」の欲望は、他者に由来・依存する ・「所有」の欲望は、二重に裏切られている →「所有」の真の対象は、物ではなく「思い」である →「所有」の欲望を作り出しているのは、自分ではなく他者である ※「幻想」としての「欲望」と「所有」と「自我」のトライアングル ・「自分であることの根拠」のリアリティを、絶対者や自己決定によって保障させることはできない →「自我」への欲望と「所有」欲をひとまとめのセットにして追うようになる →「幻想」でしかない、「欲望」と「所有」と「自我」のトライアングルが生まれる →「幻想」でしかないため、「欲望」には際限がなくなる 「他者」に由来する「私」 ※「私」とは、「他者」によって開発され、「自分」、「人間」に仕立て上げられた存在である ・我々は他者をかたどって、自分の体にして行く →「他者」から認められ、どのように「身体」として使うか仕向けられない限り「人間」の身体は持てない ・人間的「身体化」の過程で、生理的欲求・本能的欲求も「欲望化」される →欲求が身体の「中」にあることを学ぶ →同時進行で、欲求が秩序付けられていく ・「自分である」という意識も他者から学ぶ →「他者」からの呼びかけの繰り返しの中で「他者」と「自分」との関係を学ぶ →互いの関係から結ばれる位置・役割が安定する →呼びかけられる名称を、「私」という言葉がその役割を意味していることを知る ・「自分」の由来は、他者であり、自分の心身は、所有物ではなく「借用物」と言うべき物である ※「私」という一人称に編成していく能力 ・「演技」・「仮面」としての数多くの自分がいる →それとは別の「本当の自分」がいると考えられる →「本当の自分」も、数ある「偽者」との対照によってしか規定できない「役割」である ・「私」という言葉は、どの役割からもはみ出すものである →「私」という言葉は、「自分である」ことを全体に確実に保障する何物も示さない →注目すべきは、様々な役割を演じつつ、その役割を「私」という一人称に編成する能力である →「自分である」ということは、不断に創出・維持される事柄であり、完結することのないプロセスである ・人間関係が希薄な社会は、「自分」が薄く脆い社会である →「他者」との関わり合いの中で一人称としての存在の使用機会が減る →「自分」の輪郭もまた限りなく曖昧になる 「無明」・「煩悩」のトライアングル ※「無明」と言語機能 ・「欲望」に基づく誤った見方を仏教では「無明」と呼ぶ ・言語機能とは「欲望」の機構である →言語の機能とは、あるものをそれ以外と区別することである →この区別を駆使することで、ある特定価値観の中での世界の秩序付けが行われる →この区別を維持するのは、「思いどおりにしたい」という「欲望」である ※「煩悩」と「妄執」・「固執」 ・対象が「常に同じもの」との思い込みを基盤にする「欲望」を仏教では「煩悩」と言う ・「欲望」の対象としての「常に同じ物」 →「欲望」の本質は「所有欲」である →欲望の対象は、「常に同じもの」として存在しなければ無意味である →「欲望」は、対象が「常に同じもの」としてあるとの思い込みを基盤にしている ・「生存に対する妄執」と「実体に対する固執」 →「生存に対する妄執」とは、「いつまでも生きていたい」と思うことである →「実体に対する固執」とは、「あるものが常に同じままであり続ける」と考えることである →「いつまでも」、「常に」、「同じ」、「実体」とは、「妄執」・「固執」に由来する →事実と反し、誤った思い込みによって「いつまでも・常に・同じ・実体」が存在すると了解される ※「欲望」と「所有」と「自我」のトライアングルとは、「無明」の、「煩悩」のトライアングルである |