第一章 「根拠」の外部へ −本当の「自己」とは何か
第二章 煩悩のトライアングル −「苦」としての実存
第三章 システムとしての存在 −「縁起」の思想
第四章 「自己」とは何か −「方法」としての因果
第五章 「自己」の倫理 −生き方の基準はいかに決まるか
第六章 座禅とは何か −「非思量」を知る
第七章 生のテクニック −「恭敬」の作法
終章 答えなき「問い」を問い続ける −「生き方」としての禅

講談社 2001.4.10 第1刷

第一章 : 「根拠」の外部へ

− 本当の「自己」とは何か −


1.「私」に根拠はあるか


「自分であること」の根拠はどこに見出せるか

※「自己決定」する「自己」の存在自体は、我々には「自己決定」できない
 ・「自己決定」は最終的な根拠を持つことができない
   →「自分とは何か」という問いを、「自分」という概念の枠内だけでは処理できない

※「私は私である」との答えにおけるズレ
 ・最初の「私」と後の「私」との間には時間的なズレがある
   →違うものを同一視することの根拠は一体何なのか?

※「自分であること」の根拠を「自分」の枠の中だけで考えてもラチがあかない

「私」の根拠としての「絶対者」

※一切の根拠である「絶対者」が「私」を根拠付け、決定する
 ・「絶対者」は、人知を超えたものとして設定させられる
   →人知の「及ぶ」×「及ばない」の二元論となる
   →二元論によって全ての事象を説明する形而上学的思考と呼べる

2.形而上学的思考の限界

二種類の形而上学的思考

※形而上学的思考には、「真に実在するもの」に対する二つの立場がある
 ・「真に実在するもの」は、「見えないもの」とする立場
 ・「見えるもの」は、「真に実在するもの」からの現れであるとする立場

※「真に実在するもの」は、「見えないもの」
 ・「見えないもの」は通常の知覚では見えない
   →「悟り」や「本質的直感」的飛躍とされる特殊な精神的・身体的状態になることによって「見抜く」
   →「苦行」・「禁欲」などの「非日常的」鍛錬、隠棲しての「瞑想」・「観法」などの修行
   →鍛錬や、修行の結果獲得される「神秘的直感」の重視
 ・日常の事物=「浮世は夢」
   →「神秘的直感」から日常の事物を照らし返すと、全ては「浮世は夢」である
   →夢である浮世に思い煩うのは愚の骨頂である。夢は夢なりの「真実」であるという程度で対すればよい

※「見えるもの」は、「真に実在するもの」からの現れ
 ・「見えないもの」は、「見えるもの」を「通して」知られる
 ・我々の知覚・認識能力にも、絶対者と同様の力が本来備わっている
   →「見えるもの」の「冷静」な観察と認識が大切
   →データの集積と「学的・理性的直感」によって「見えないもの」が「見えるもの」の中に「見えてくる
 ・真理は丸出し
   →日常世界のあらゆる局面は「見えない」絶対者の現れである

形而上学的思考の限界

※形而上学的思考には限界がある
 ・二種類の形而上学的志向は、人間の思考に強力な拘束力を持つ
 ・特に、「浮世は夢」の立場の形而上学では、過激な現状改革主義になることがある
   →「見えない」理想に合わせて現状を改変する必要とするため
   →この形態に留まる限り自分も「絶対者」の範囲内にあることを前提にせざるを得ない
   →「絶対者」を知覚するということは、「絶対者」の世界の中に自分が含まれていることが前提であるため

3.「第三の道」としての仏教

議論を下りる

※形而上学的思考とは全く別の地点から光を当てる
 ・「有り−無し」の議論のもうひとつの方法は、この議論自体を降りることである
   →仏教の言う「中道」とは、有無判別についての議論の土俵の外にでる態度のことである

※根拠への「問い」と、とどまる「問い」
 ・「自分が自分である」根拠の有無は考えなくても良い
   →根拠があると言えないからないと言う必要もまたない。どうでも良いものである
 ・問いがあるという事態
   →根拠の有無を考えなくても良いとしても、根拠への問いは残る
   →私たちが考えなければならないのは、根拠を問うことではなく、問いがあるという事態そのものである
 ・「自己」はプロセス
   →根拠は求めても得られない。根拠への問いは問いのままにとどまる
   →「自己」とは、問いに答えるのではなく、応えながら生成される、そのプロセスである


第二章 : 煩悩のトライアングル

− 「苦」としての実在 −


1.欲望とは

「首尾一貫した本当の自分」に対する欲望

※コレクションとブランド志向に見る欲望
 ・コレクターの欲望
   →コレクションとは、自分の決めたことを首尾一貫させようとする欲望である
   →コレクションの欲望は物ではなく、集めるというそれ自体の「思い」に向かっている
 ・ブランド物における「本物」志向
   →ブランド物における「本物」とは、物ではなく「本物であるという決定」の手続きである
   →「本物」志向とは、手続きによって保証された「本物」という決定に対する「思い」である

※「自分であることの首尾一貫性」への欲望=「自分であることの根拠」
 ・コレクションやブランド志向に見る「思い」は、現在の自分を「偽者」と見る
   →自分自身の価値観において完成させようとする「思い」だからである
   →「思い」における完成がなされていないため、現在の自分は自分でない、嘘の、「偽者」の自分に思える
 ・「自分であることの根拠」を見出す作業
   →「自分であることの根拠」における「根拠」そのものを見出す作業は、必ず行き詰まる
   →「根拠」がないからである

2.所有とは

「根拠」への欲望と、その代用としての「所有」

※「根拠」への欲望と、その代用としての「所有」
 ・「自分であることの根拠」は、見出すことはできない
 ・行き詰まりに対し、物を集め所有することが「根拠」に代用される
   →所有の本質は、物を「思いどおりに好き勝手に処分できる」ことである
   →自己決定できることであるため、根拠足りうるものとして認められてしまう
 ・「所有」は、所詮代用でしかない
   →「所有」によって、「自分であることの根拠」が満足されることはない
   →「所有」欲もまた、最初から失われている根拠への欲望に根ざしている

3.煩悩のトライアングル

「苦しみ」そのものとしての人間の存在

※「思い」としての欲望
 ・常に「思い」は、まず他者によって媒介され、他者から教わらなければならない

※「苦」の生起
 ・「苦」は、いたるところの事象・事物への愛着からの渇愛である
 ・「苦」とは「思いどおりにならない」ことである
 ・欲望は、際限のないものである
 ・「苦」の本質は、「自分であることの根拠」への欲望である
   →「自我」自体が恣意的に決められたものである根底であるため、首尾一貫させようとする
   →その首尾一貫させようとの「思い」が「欲望」、つまり「煩悩」である

「欲望」と「所有」と「自我」のトライアングル

※欲望とは
 ・欲望と欲求とは異なる
   →欲望は、人との接触の中で、他者に媒介され、他者から教えられたものである
   →欲望は、本能としての欲求とは関係がない

※欲望の本質は、「思いどおりにしたい」である
 ・「首尾一貫していること」とは、自分自身の価値観の中で「思い通り」にできているということである。
   →物の所有とは、物を自己決定できることである
 ・苦しみの本質は、「思いどおりにならない」である
   →欲望とは、本能的に「したい」ことではなく、「思いどおりにしたい」という「思い」である

※欲望の核心としての所有
 ・欲望と所有と自我(「自分であることの根拠」)のトライアングル
   →「欲望」の核心は、「所有」である
   →「所有」の実質的意味が「自己決定」である
   →「自己決定」が「自分であることの根拠」である
   →トライアングルの螺旋的連鎖により、「自分であることの根拠」はより堅牢なものとなる

※代理としての「所有」の限界
 ・「所有」は、「自我」の代用にはなり得ない
   →「所有」の欲望は、他人に教わったものである
   →「所有」の欲望は、他者に由来・依存する
 ・「所有」の欲望は、二重に裏切られている
   →「所有」の真の対象は、物ではなく「思い」である
   →「所有」の欲望を作り出しているのは、自分ではなく他者である

※「幻想」としての「欲望」と「所有」と「自我」のトライアングル
 ・「自分であることの根拠」のリアリティを、絶対者や自己決定によって保障させることはできない
   →「自我」への欲望と「所有」欲をひとまとめのセットにして追うようになる
   →「幻想」でしかない、「欲望」と「所有」と「自我」のトライアングルが生まれる
   →「幻想」でしかないため、「欲望」には際限がなくなる

「他者」に由来する「私」

※「私」とは、「他者」によって開発され、「自分」、「人間」に仕立て上げられた存在である
 ・我々は他者をかたどって、自分の体にして行く
   →「他者」から認められ、どのように「身体」として使うか仕向けられない限り「人間」の身体は持てない
 ・人間的「身体化」の過程で、生理的欲求・本能的欲求も「欲望化」される
   →欲求が身体の「中」にあることを学ぶ
   →同時進行で、欲求が秩序付けられていく
 ・「自分である」という意識も他者から学ぶ
   →「他者」からの呼びかけの繰り返しの中で「他者」と「自分」との関係を学ぶ
   →互いの関係から結ばれる位置・役割が安定する
   →呼びかけられる名称を、「私」という言葉がその役割を意味していることを知る
 ・「自分」の由来は、他者であり、自分の心身は、所有物ではなく「借用物」と言うべき物である

※「私」という一人称に編成していく能力
 ・「演技」・「仮面」としての数多くの自分がいる
   →それとは別の「本当の自分」がいると考えられる
   →「本当の自分」も、数ある「偽者」との対照によってしか規定できない「役割」である
 ・「私」という言葉は、どの役割からもはみ出すものである
   →「私」という言葉は、「自分である」ことを全体に確実に保障する何物も示さない
   →注目すべきは、様々な役割を演じつつ、その役割を「私」という一人称に編成する能力である
   →「自分である」ということは、不断に創出・維持される事柄であり、完結することのないプロセスである
 ・人間関係が希薄な社会は、「自分」が薄く脆い社会である
   →「他者」との関わり合いの中で一人称としての存在の使用機会が減る
   →「自分」の輪郭もまた限りなく曖昧になる

「無明」・「煩悩」のトライアングル

※「無明」と言語機能
 ・「欲望」に基づく誤った見方を仏教では「無明」と呼ぶ
 ・言語機能とは「欲望」の機構である
   →言語の機能とは、あるものをそれ以外と区別することである
   →この区別を駆使することで、ある特定価値観の中での世界の秩序付けが行われる
   →この区別を維持するのは、「思いどおりにしたい」という「欲望」である

※「煩悩」と「妄執」・「固執」
 ・対象が「常に同じもの」との思い込みを基盤にする「欲望」を仏教では「煩悩」と言う
 ・「欲望」の対象としての「常に同じ物」
   →「欲望」の本質は「所有欲」である
   →欲望の対象は、「常に同じもの」として存在しなければ無意味である
   →「欲望」は、対象が「常に同じもの」としてあるとの思い込みを基盤にしている
 ・「生存に対する妄執」と「実体に対する固執」
   →「生存に対する妄執」とは、「いつまでも生きていたい」と思うことである
   →「実体に対する固執」とは、「あるものが常に同じままであり続ける」と考えることである
   →「いつまでも」、「常に」、「同じ」、「実体」とは、「妄執」・「固執」に由来する
   →事実と反し、誤った思い込みによって「いつまでも・常に・同じ・実体」が存在すると了解される

※「欲望」と「所有」と「自我」のトライアングルとは、「無明」の、「煩悩」のトライアングルである