
一般に、物事の良し悪しは、その判断する人物の≪好き・嫌い≫で判断されることが多い。それは、感性の優れた人物であるならば、ひとつの見識として評価はできるであろうが、それとは違う基準を本来は示すべきであろうと思われる。それは、≪好き・嫌い≫ではなく、純粋に≪良い・悪い≫で判断することである。 その≪良い・悪い≫で判断を進めるならば、その基準が何であるのかは、ハッキリと示されなければならない。私達にとって、映画の≪良し・悪い≫の判断は、その作品を、見た時点で楽しめたかどうかではない。この≪楽しめたか・楽しめなかったか≫の判断は、その時の自分自身の体調、社会的風潮、どのような場所で見たかなどによって大きく左右されるものである。そのため、ものさしとしては、非常に曖昧である。 それに対し、ある程度誤差の少ないものさしは、その作品の完成度が如何に高いか。それだけで判断する方法である。 世の中には、≪古典≫と呼ばれるものが存在する。≪古典≫とは、詰まるところ、長い年月を通してその価値が認められたものである。それは、その作品の完成度が高いことに由来する。 映画などでは、その時代時代におけるムーブメントで、ヒットする作品は、変化する。実際ヒット作品が完成度の高い作品である可能性は高いものの、ヒットする作品と≪良い≫作品とは別物である。しかし、このように標榜する立場は、芸術作品至上主義に陥ることが多い。しかし、誤解されては困る。だからと言って我々は芸術作品を評価する立場でもない。一般に芸術作品に分類されるものほど、その時代時代の、変化し続ける不安定な芸術に対しての意識によって、左右されるものであり、芸術性が高い=≪良い≫作品であるとは限らない。むしろ、その意固地な芸術意識に凝り固まっていることが多い。そのため、むしろ、いわゆる芸術作品に対しては、懐疑的な立場である。 では、その完成度の判断は、どのようになされるのか。それは、≪古典≫が≪古典≫として残ってきた理由、≪古典≫が≪古典≫としてありえる理由を参考にすることで、見ることができる。その判断の基準は、次の3点に絞られる。 @≪核≫からブレなく、照らし返されているか A≪品格≫があるか B≪信≫を土台にしているか この3点は、互いに密接に関連しているが、各々について詳しく述べると次になる。 @≪核≫からブレなく、照らし返されているか これは、全体を貫くトーンが、根底のところで如何に通底しているかによって判断される。良い作品になればなるほど、その映画全般を通してのトーンは、一切ブレがない。それがコメディであっても、ファイティングであっても、悲劇であってもその≪核≫から、ブレることはない。作品のひとつひとつの場面が独立しているのではなく、そのひとつひとつの場面が、作品の大きな全体のフレームの中で、無駄なく配置されている感覚を生み出す。つまり、その表現において過不足がなく、バランスが取れていることとなる。そしてそれでいながら、大きな視点をその背後に常に感じさせるというものである。 それは、製作者が作品を作る発心のところ、つまり作品の≪核≫と結果としての作品との間に齟齬がないからである。それは言い換えるならば、作品を≪核≫から照らし出した際、無駄なく照らし返されているか、その照らし返しに夾雑物が含まれていないかであると言える。言うなれば、どこの場面を切っても、焦点の絞れた金太郎飴であることが最も望ましい。 A≪品格≫があるか ≪品格≫とは、≪気品≫と≪格調≫である。≪品格≫は、無駄のない、バランスの良さによって生まれるエレガントさである。それは、表層的なエレガントさではない。表面には出てこない、匂い立ってくるエレガントさである。それは、@の部分と多分にリンクしてくることでもある。 @においては、製作者の発心と作品と作品との間に夾雑物がないことについての判断である。一方、Aのそれは、製作者、出演者などの個人が、作品に対する姿勢に夾雑物がないかについての判断である。そして、製作者、出演者自体の心に夾雑物がないかの判断である。つまり、作品に関連する人々の心に夾雑物がないか、作品が高貴で気高い精神から照らし出されているかである。それは結果として、画面上に匂い立ってくる出演者の、人間としての≪気品≫・≪格調≫であり、作品の各役の人物が人間として引き立っているかに出てくるものである。 つまり、各役の≪核≫から無駄なく出演者が演技の中に照らし返せているか、そして監督がその演技を無駄なく映しきれているか、そしてその結果としての画面にそれを無駄なく配置し、≪品格≫を匂い立たせているかどうか。それが、この判断である。 B≪信≫を土台にしているか 映画を見る人々は、その中に基本的に≪喜悦≫を見出そうとしている。人はそこに、醜いものを見にわざわざ来ているのではない。それがたとえ悲劇であったとしても、何かしらの≪喜悦≫を見に行っているのである。そのため、役者は、たとえ身分の低い人物を演ずるにしても、エレガントでなければならない。それは、人間が人間として生きていること自体の尊厳を基盤にすることで発生する≪品格≫である。それは、たとえそれが故なき生であったとしても、生き続けていることの尊厳である。その尊厳を製作する人々に共通認識としてあるかどうかは、自然と画面上の所作に現れてくるものである。そして、そのことは、具体的に述べるならば、製作者が、人々に対し、その作品を通して≪喜悦≫を持ってもらおうとしているかに見ることができる。 その尊厳に対する謙虚さと、≪喜悦≫を持ってもらおうとする姿勢は、受け手である観客に対しての≪信≫があるかどうかである。つまり、自分自身の考えを表現するために作品を作るのではなく、まず先に、如何に観客が≪喜悦≫してくれるか、そのことを出発点として持っているかどうか、それが≪信≫を土台にしているかの基準である。 以上の3点が判断の基準である。以上のような理念を基準として判断するものの、実質的な判断としては、次のようなものがあげられる。 @音楽 ・音楽が、作品全体の流れとマッチしているかどうか、そして、単独の曲として完成度が高いかどうか。 Aカメラワーク ・監督の力量が試されるものである。場面の切り口に冴えがあるかどうか、そしてその場面の繋ぎ方に冴えがあるかどうか。当ページではキャプチャーを各評において行っているが、基本的に良い作品になればなるほど、その参考としての取り込みの数は多くなる。それは、作品全体と各場面とか密接にリンクし、その表現に冴えがあるからである。 B映画になっているかどうか ・映画は本来大画面で見るものである。そのため良い作品であればあるほど、小さい画面では、その良さを感じ取りにくくなる。重要なのは、大画面で栄える作品になっているかどうかである。 Cキャスティング&演技 ・各キャスティングが、その役者の特性を生かしたものとなっているかどうか、そしてそのキャスティングにノリを持って演技しているかどうか。作品の良し悪しは、ここに起因することが多い。それは、製作者が一種の科学反応のようになって、予想だにしていなかったノリを見せているかである。 具体的な判断の表は、下記である。 |
| 完璧+α の完成度があり、≪品格≫がある。何回も見に行く。何回も見るごとに感銘が深くなる。 | |
| 完成度の高い、良作。もう一度見に行く。再び、新鮮な感動を受け、自分のツボに入ったらまた足を運ぶ。 | |
| 一度は、見に行く。十二分に堪能できる。 | |
| 誘われたら、見に行く。それなりに楽しい時間を過ごして帰ることができる。 | |
| マニアは、見に行く。 | |
| 全く印象が残らずに帰る。 | |
| 時間を無駄にしてしまったと感じる。 | |
| あまりのつまらなさに、『金返せ!』と言いたくなる。 |