2004年7月18日 Workshop ≪特別講演≫
南インド映画と政治とのかかわり=神智学運動と南インド社会=
講演 : 神戸学院大学人文学部 赤井敏夫 教授
ルクミニ・デヴィの古典舞踊復興

1. 神智学的オカルティストとして
1904
マドラス管区のブラーミン家庭に生まれる
父はパンディット(サンスクリット学者)のA・ニラカンタ・サストリ、神智学運動の活動家で、1911年に娘を神智学に接触させる
母セシャンマルは何らかのかたちでカルナーティック音楽と関係があった人物らしい
1920
ジョージ・S・アランデールと結婚。26歳年上の白人との結婚はブラーミン社会に衝撃を与える
アランデールはセントラル・ヒンドゥー・カレッジの学長を務めた教育者として知られる
イギリスでレッドビーターにリクルートされてTSに参加して以来、本質的にはオカルティスト
1910年にクリシュナムルティに感化されてその高弟となり、ワールド・ティーチャー運動の中核を担うOSE(東方の星団)のオーガナイザー兼推進者となる
20年代半ば以降はOSE活動をめぐってクリシュナムルティと反目
ワールド・ティーチャーの陪神として、「ワールド・マザー」(シャクティの化身であり、歴史上聖母マリアに受肉したとされた)なる新たなコンセプトを持ち出し、ルクミニにワールド・マザーが受肉したと宣言
このためワールド・ティーチャー運動は混乱に陥り、1929年にクリシュナムルティ自身がロード・マイトレーヤの化身としてのワールド・ティーチャーであることを公式に否定して(いわゆる「人間宣言」)OSEの解散を宣言することで、運動は崩壊する
2. 古典舞踊復興の旗手として
1925
ロンドンでアンナ・パヴロワの「瀕死の白鳥」の公演を見て感銘を受ける
OSE本部がオランダに置かれていた関係で、アランデール夫妻はしばしば渡欧していた
↑もっとも西洋化したブラーミン女性としてのルクミニ
1928
アンナ・パヴロワは世界ツアーの一貫としてインド公演を行う
アランデール夫妻はベナレスで開催されていたTS年次総会への参加を中断し、ボンベイでのパヴロワの舞台を鑑賞
パヴロワはオーストラリア公演に向かうが、パヴロワの客船にアランデール夫妻も乗船していた
↑自由カトリック教会の司教となったレッドビーターを訪問するため
アランデール夫妻は船上でパヴロワと親交を深める。このときに、バレリーナとなる希望を述べたルクミニに対して、パヴロワはインドの古典舞踊に関心を向けるよう勧めたとされる
後にパヴロワ・カンパニーのバレー・ダンサー、クレオ・ノルディからバレーのトレーニングを受ける
オーストラリアからの帰路、ジャワに立ち寄る。ルクミニはここではじめてラーマヤーナ劇と接する
↑カラークシェトラ創立後、インドネシア出身のオランダ人演出家パウル・シュトルムの協力を得て、バラタナティヤムの演目として一連のラーマヤーナ劇を創作することになる
1933
マドラス音楽アカデミーの公演で、はじめて古典舞踊に接する
マドラス音楽アカデミー=イサイ・ヴェララール(Isai Velalar)と呼ばれるデーヴァダーシスのカーストに由来する舞踏団
主宰者E・クリシュナ・アイヤールはブラーミンの法曹家。幼少時から故郷カッリダイ・クルチ(Kallidai Kuruchi)でデーヴァダーシスの舞踏に接し、封建主義的遺物として社会的非難を浴びていた古典舞踊を、近代南インド社会に受容されるように「改革」することを目指して、30年代から公演活動を行っていた
ルクミニはクリシュナ・アイヤールを介して、イサイ・ヴェララールの踊り手から古典舞踊の訓練を受ける←パンダナルー・ミーナクシスンダラム・ピッライ(Pamdanallur Meenakshisundaram Pillai)の高弟チョッカリンガム・ピッライ(Chokkalingam Pillai)、サバランジダム(Sabaranjitham)がグルとなる
1935
神智学協会創立60周年記念で初舞台
1936
マドラスにカラークシェトラ設立
カラークシェトラは1915年にベザントが設立した神智学教育財団の財政的支援を受けていた
近代的教育プログラムの一貫としてのバラタナティヤム←カラークシェトラの設立理念=古典舞踊教育を専門にした学校ではなく、既存のミッショナリー主導型のキリスト教教育とは別の、「インド古来の伝統にもとづいた」かつ「近代的な」教育機関
TSからのバックアップ=アランデールからの支持(33年TS会長に選出)、ペーター・ホフマンなどTS関係者が演出、舞台設定などの面で西洋的ステージの要素を導入
↑「世俗化された」ステージ・パフォーマンス